書籍・雑誌

2013年3月 2日 (土)

『あんぽん 孫正義伝』を読む。

 

 遅ればせながら、ようやく図書館での順番が回ってきた『あんぽん 孫正義伝』(小学館)を読んだ。

 

 まず最初に書いておくと、本書の著者、佐野眞一は、週刊朝日に連載しようとした橋下徹大阪市長についてのルポ『ハシシタ 奴の本性』でさんざん叩かれたが、自分は『東電OL殺人事件』(新潮社、新潮文庫)を読んで以来、当代随一のノンフィクション作家だと思っているし、あの「事件」以降も、その思いに変わりはない。

 そもそも中止になった連載も、もちろん掲載された第一回を読んだだけだが、何が問題なのかさっぱりわからなかった。

 橋下徹が部落出身だということは以前にも書かれていることだ。また、その部落を特定していることが差別を助長するなどと言われたが、じゃあ特定しなかったら部落差別はなくなるのか。

 これは地方出身者でないとわかりづらいだろうが、部落差別は現在も厳然としてある。自分は香川県の出身だが、「何々町は部落だから危険」だという言われ方は今でもされている。部落について興味も関心もない子供の頃の自分も、そうした大人たちの噂などで、大体どこが部落なのかを知ってしまったが、おそらく他の地方でも同様だろう。つまり地元の人間には、どこの町や村が部落かということは、すでにわかっている。それを全国発売の週刊誌に載せることは、地元民以外の人間が知るということにすぎない。

 いや、それが問題なのだという人に自分は言いたい。じゃあその事実を知ったら、あなたはその町や村に住む人を差別するのか。であれば、それこそが問題なのではないか。

 少なくとも自分があの連載第一回を読んだ限りでは、佐野眞一は、橋下徹が部落出身だから悪いとか、性格的に問題があるという書き方はしていない。当たり前の話だが、部落出身の人間には、多種多様な人間がいる。サラリーマンと一言でくくられる人間に、多種多様な人間がいるのと同じだ。ただ佐野眞一は、例の体罰事件からもわかるような、橋下徹の一貫性のない言動、エキセントリックに見える言動のルーツを辿ろうとしただけのことだ。それは過去の彼の著作と同様、人物を地縁や血縁からから探ろうという、いつもの手法である。

 だからこそ、版元である朝日新聞社が言論の自由をあっさり放棄して謝罪したのは、「どうせこいつらの言うジャーナリズムなんてこんなもんだろう」と思っただけだったが、佐野眞一本人までが謝罪してしまったのは、大いに失望した。

 最近は新聞などで「知識人」などというわけのわからないくくられ方をしているせいか、多くの人が誤解しているようだが、作家というのは、かつて断筆宣言をした時の筒井康隆が書いたように、何を書いてもいいのである。なぜなら彼らは品行方正な常識人でも、紳士や淑女でもないからだ。だから、批判されるのは仕方がないが、謝るというのは自己を否定することでしかない。人間だから間違ったことをすることはあるが、佐野眞一ほどのキャリアも実績もある作家が、信念を込めて書いたおのれの文章を否定するということは、過去の作品も含めて否定することにもつながりかねないので、その裏にいかなるしがらみや配慮があったにしても、やめてほしかったのだ。

 

 長々と、本題とは関係ない話を書いたようだが、実は大いに関係がある。なぜなら、本書の主人公である孫正義は、在日韓国人だからである。

 現在は戸籍上、日本人に帰化しているが、ネトウヨたちには相変わらず「在日、韓国へ帰れ、日本から出て行け」と中傷され続けている。本書の中で佐野眞一も書いているように、もちろんネットのない時代も、孫正義や彼の父母をはじめとする親類たちは、部落民たちと同じく、言葉で中傷されるだけでなく、石を投げられ、暴力を振るわれ、就職や結婚でも差別され続けてきた。

 現在、在日韓国人たちが多く住むコリアンタウンの新大久保界隈では、「在特会」を名乗る者たちが、「在日を殺せ」といったプラカードを掲げ、在日排斥運動を繰り広げている。自分はこういう最低の人間たちと同じ日本人であるということを心の底から恥ずかしく思う。

 かつて自分たちが大陸から強制連行してきた韓国人(朝鮮人)たちを差別し続け、時には関東大震災時のように虐殺してきた日本人は、戦後民主主義社会になって半世紀が過ぎても、相変わらず同じことをやっており、まったく進歩のかけらもない。

 在特会やネトウヨのような人間にとっての民主主義社会とは、日本人だけに通用する民主主義ということなんだろう。だが、それはもはや民主主義ではなく、単なる「日本人ムラ社会」である。すなわち、「世界の田舎者の集まり」にすぎない。

 そうした日本人ムラ社会は、アングロサクソンに対しては矛を向けない。あまりに強大で、しかもカッコよすぎて、太刀打ちできないからだ。そこで、姿形の似ている(しかし能力で自分たちを脅かしている)韓国人や中国人を批判する。世界有数の成功した東洋人である孫正義は、格好のターゲットである。そこで佐野眞一は本書で、そうしたネトウヨたちに対して、こう書く。

 

 何もわかっちゃいないな。在日がいるから、日本人は辛うじて

 “生物多様性”を保持でき、どうにか“他人”との付き合いが  

 できるんじゃないか。

 

 自分もまったく同感である。むしろ、今後、少子高齢化が加速する国を救う手立てとしても、日本はありとあらゆる人種を積極的にどんどん受け入れ、混ざり合えばいいと思っている。そうすれば、部落だの在日だのというくだらない差別は、自然と消滅してしまうだろう。

 それに、「純粋な日本人」なんてものはいない。日本人のルーツは、日本列島に元から種族がいたとしても、大陸から渡来した種族の掛け合わせだ。いや現在でも、東北人と九州人の顔かたちの違いを見ても、同じ人種とは思えない。「固有の領土」なんてものがないように、純粋な日本人なんて、どこにもいないのだ。

 

 ところで、この文章は本書の内容を説明する目的ではないので、いちいち書かない。また、題名から内容は大体推し量れるだろうが、佐野眞一が孫正義をヨイショするために書いた本ではない、ということは、佐野の著書を読んだことのない人のために、言っておいた方がいいかもしれない。

 実際に本書の中で、佐野眞一は孫正義について「うさんくささがつきまとう」と何度も書いている。それでも佐野が孫正義に興味を持ったのは、おそらく、ひとつは彼が在日であること、そして、これを『週刊ポスト』に連載した当時、東日本大震災と原発事故が起こり、孫が反原発の立場を鮮明にして、自然エネルギー開発への投資を言明したことが大きいだろう。

 前者について言えば、おそらく佐野眞一は、今の日本の薄っぺらい「リーダー」たちの物語など、書く気がしなかったのだろう。佐野は、たとえば戦争中、人肉を食らうまで追い込まれたダイエー創業者の中内㓛や、超一流企業のエリートOLながら渋谷のホテル街で売春婦をしていた渡邉泰子のような、何日もギトギト煮込んだ濃厚なスープのような物語性を持った人物を追い求めていたのではないか。その意味では、佐野のもくろみ通り、孫の父親をはじめとする一族の濃すぎる歴史とキャラクターが、本書では存分に描かれている。

 後者については、その後、ほとんど報道されないので、今はどうなっているのかは知らない。ただ、原発再稼働を明言している現在の安倍晋三内閣からすると、そのような計画が実行されると非常にまずいことになるので、あの手この手で妨害されているのかもしれない。

 

 自分の読後感としては、今まで孫正義について書かれた本を読んだことがなかったので、そのバックグラウンドがよくわかって面白かった。ただ、佐野眞一が濃厚な物語性を求めるあまり、孫正義自身の性格や業績についての掘り下げ、および批評が不十分だった気がする。

 とはいえ、佐野が孫の考え方を批判している部分も、もちろんある。そのひとつが、孫があまりに理数系の頭で考えすぎであり、身体性が欠如しているということ。

 一例を挙げれば、今後、本は電子書籍のみになり、従来の紙による本は絶滅すると孫が言っていることについて、佐野眞一は反論しているのだが、自分もそれはないと思う。たとえば音楽では、CDが主流となって数十年が経ち、現在はネット配信が隆盛だが、その一方でアナログレコードが再び注目されてきている。昔のようにシェアは逆転しないだろうが、レコードが絶滅することもないと思う。人間は、常に便利なものだけを選択するとは限らない。それに一見ムダだと思えることが、長い目で見ればムダでないことも、人生においてはたくさんある、ということだ。

 ただ、佐野眞一の危惧は自分にもよくわかる。

 自分は現在、Webスクールで勉強中の身なので、日々実感していることがある。コンピュータというのは、指示されたことだけは忠実に実行するが、それ以外のことはまったく受け付けない。つまり人間なら「はあはあ、こういうことが言いたい(したい)んですね」というふうに忖度してくれたり、いろいろ融通が利くが、コンピュータにはそれがない。それで気がついたのだが、最近の若い人は、そういうコンピュータと同じような、杓子定規的な性格の人間が増えているような気がする。

 孫正義のやろうとしていることは、そういう人間をどんどん増やしかねないのではないか、という思いは、自分にもなくはない。

 とはいえ、孫正義に対し、ある種の共感を持っている佐野眞一と同様、自分も以前よりは少し、彼を応援したくなったことも確かである。

 本書の中で孫正義は、DoCoMoKDDI auなどの携帯電話各社が、経産省からの天下りを受け入れ、便宜を図ってもらっているのに対し、SoftBankは一切それを排除してきたと語っている。また孫は、経団連に対しても真っ向から対峙する姿勢を見せている。

 原子力ムラを引き合いに出すまでもなく、この日本という国は、様々な既得権益の集団に牛耳られている。民主党がそれを変えてくれるのかと期待したが、あえなく沈没した。そして現在、再び自民党政権に戻り、既得権益天国の様相を呈している。

 そうした既得権益を死守しようとする年寄りどもに立ち向かうには、孫正義のような、在日コリアンという激しい血と冷静な頭脳を持ち、既得権益を恐れず突っ走る存在が、絶対に必要だと思う。


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2011年10月27日 (木)

『原発放浪記』を読む

 ここのところ、原発関連の本や映画ばかり紹介しているが、なんせ面白いから、ついそっちに偏ってしまう。

 で、今回も石神井図書館に「お取り寄せ」してもらった『原発放浪記』(川上武志著・宝島社)を、わずか一日で読了してしまった。
 以前、mixiのレビューで『原発ジプシー』について書いたことがあるが、これも基本的には、全国各地の原発を渡り歩いて労働してきた人の手記である。
 ただし『原発ジプシー』は、ルポライターが原発の実態を明らかにするために潜入して書いたものだが、この『原発放浪記』は、一般の人がたまたま原発労働者となり、各地を転々としてきた記録。そのため、当初は原発に批判的ではなく、美浜原発でたまたま知り合った原発労働者の老人に「原発は危なか、辞めた方がよか」と忠告されても、「低度の放射能はむしろ身体にいいと、関西電力の社員による安全教育で教えられていた」ために、聞く耳を持たなかったという。
 さらに、『原発ジプシー』との相違点を言えば、こちらは電力会社の下請け会社の、そのまた下請け会社の労働者にすぎない現場の作業員が、どれだけピンハネされて、雇用保険すらない安い日給で危険な作業を強いられているかが、具体的に記されている。この著者は、30代の頃に美浜、伊方、福島第一と渡り歩き、その後、いったん原発の仕事から足を洗うが、50代になって再び浜岡や女川で原発労働者として働いた。その浜岡では、身分を「ダミー会社の社長」という身分にされた挙げ句、実際は臨時雇いの身分で日当は1万3千円。もちろん各種手当てどころかボーナス、雇用保険、源泉徴収一切なし。そこで5年働いたのに、雇用保険をつけてくれと頼むと即刻解雇と、労働基準法すら守られていなかったという。それでも原発で働く人がいるのは、本名や住所を偽ろうと問題なく、過去の経歴さえまったく問われず、黙って働いていれば定年もないという環境ゆえで、年間被曝量の上限さえ守れば(これもかなり「自主的に」ごまかしているが)いつまでも働ける(これもガンや白血病などの身体の危険を無視すれば、だが)職場だから、ということのようだ。従って、原発労働者のなかには、刺青を入れた人間が数多く存在しているという。
 ニコニコ動画で、毎週、東電と原子力安全・保安院、政府による統合会見が生中継されているが、あれを見ても、福島第一原発で亡くなった作業員の死因について、東京電力側はきわめて冷淡であることがよくわかる。それはおそらく、彼等が東電社員ではなく、下請け会社のさらに下請け会社に属する、末端のカスのような存在であり、金さえ払えばいくらでも取り替えのきく「部品」としか認識していないからだろう。しかし、直接でないとは言え、そうした人間達を、安全性を何よりも重視すべき原発で働かせているのは、東電以外のどこでもない。
 もちろん、東電だけでなく、北海道電力、東北電力、中部電力、北陸電力、関西電力、四国電力、九州電力、さらに日本原子力発電、日本原子力発電機構も同じ。各地方の経済を牛耳る大企業として君臨し続けているこれらの電力会社が、通常なら絶対に雇い入れないような人間たちを、何十年にもわたり、間接的とはいえ大量に雇用してきているのは、まぎれもない事実だ。それは何を意味するか? もちろん、そういう人間たちでしか、仕事をしてくれないからだ。命の危険にあまりにも無知で、亡くなっても身元がよくわからないような人間にしか、やらせられない仕事。それが、原発の現場作業なのである。そんな、日本国憲法の基本的人権を無視しているような仕事をしなければ維持できない原子力発電というシステムは、それだけで「違法」ではないか?
 
 それからこの本は、浜岡原発周辺に住む人間が「反原発」の意志を持っていると、中部電力があの手この手で圧力をかけてくるという事実も暴露している。著者は浜岡原発の下請け労働者として働いたが、不当解雇に抵抗しているうち、原発関係の本を読み、次第に原発の存在自体に疑問を持つようになったという。その後、浜岡原発で知り合った30代初めの原発労働者の不当解雇に腹を立て、中部電力の「総括広報グループ」の人間と話をした際、面と向かってこう言われたという。
「そんなに(東海)地震が怖いのなら、ここから出て行ったらいいじゃないですか。誰も、あんたがここにいることを望んでない」
 これは単なる個人的意見としても、原発反対派がいたら徹底的に身内を調べ上げ、電話で脅しをかけたり、土建業者を使っていやがらせを繰り返したりと、中部電力はヤクザ以上に薄汚い手口を駆使するらしい。もちろん、これは中部電力に限らない。かつて日立の関連会社で原子炉の設計に携わった田中三彦氏は、以前に福島第一原発4号機の歪み修正作業をした事実を明かした際、日立製作所に勤めていた義兄に、日立本社から脅迫めいた電話がかかってきたという。

 昨日だったか、原発事故以後の原子力発電コストを試算した結果が公表され、その「変わらなさ」が大いに喧伝されている。「原子力ムラ」は相変わらず、原発再稼働・推進なくして日本の将来はないと、各メディアに圧力をかけ続けている。以前はまだマシだったNHKも、「原発事故以後の食品の安全性」をしきりにアピールするようになってきた。
 しかしその一方で、一般市民による高線量スポットの「告発」はどんどん増えている。そう、高線量だけは隠しようもないからだ。食品汚染にしても、国際環境NGO団体「グリーンピース」のHP(http://www.greenpeace.org/japan/ja/)では、野菜や魚から高い値の放射性セシウムを検出したことが発表されている。

 そう、「原発なくして日本の未来なし」ではなく、もはや「原発をなくさずに日本の未来はなし」でしかないのだ。4796685359_2


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