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2017年6月11日 (日)

責任者のいない国

ここのところ、「責任」ということをよく考える。

もう4~5年も前に派遣で働いていたある会社の社員の人たちと、俺のお別れ会で飲んだ時に、当時まだ30代前半くらいだった主任クラスの人が言っていた言葉を思い出す。

 

「……今は誰も責任を取ろうとしないんですよ。」

 

その言葉が、年々自分の中で重く、大きくなっている。

 

俺は、1960~70年代に作られた日本映画、それも1週間や2週間単位で上映されては消えていったプログラムピクチャーを観るのがとても好きだ。その中には傑作、秀作もあれば凡作、愚作もある。当時の基準は、客が入れば傑作、入らなければ愚作だったが、当時ほとんど評価されなかった作品が、数十年の時を経て「傑作」だと言われることも少なくない。

 

特に日本映画の場合は、まず評価されるのは監督であり、俳優である。最近になってようやくプロデューサーや脚本家、キャメラマン、音楽、美術にも日が当たるようになったが、彼らはあくまで脇役扱いだ。黒澤明監督の映画は、何十人、何百人というスタッフやキャストが関わっているが、評価されるのはまず黒澤、次に主演の三船敏郎であり、脚本の小国英雄や音楽の早坂文雄などは、映画ファン以外には名前すら知られていない。

 

しかし、たとえば日本映画史上に残る名作と謳われる『七人の侍』。この作品は、膨大な制作費と制作期間を要し、公開のめどが立たなかったため、一時は製作中止にまで至ったことで知られるが、その際、日数と予算オーバーの責任を取って辞表を出したのは、当時まだ東宝社員だった監督の黒澤明でもなく、製作者(プロデューサー)の本木荘二郎でもない。撮影所長である。

 

結局、撮影が再開されることになり、この撮影所長も復帰したが、もしも中止のままなら、この撮影所長は当然、東宝を去っていただろう。

 

考えてみると、なぜさしたる権限もなかったはずの撮影所長が責任を取る必要があったのか疑問だが、誰かが責任を取ろうとしなければ、ことが収まらなかったのは確かだろう。

 

現在、日本映画の多くは、「製作委員会方式」で作られている。その映画に資本を投下している複数の企業が「◯◯◯◯(映画の題名)製作委員会」を立ち上げ、製作母体とする方式だ。『七人の侍』は、東宝という映画会社が製作し、配給も行っていたが、その製作の役割を「◯◯◯◯製作委員会」が受け持っている。

 

当然ながら、この製作委員会方式は合議制だ。である以上、責任も分散する。何か不始末があっても、誰か一人が辞表を出せば終わるわけでもない。リスクも分散されるわけだ。

 

しかし、リスクや責任が分散されるということは、評価も批判も、特定の一個人に向けられることはないということでもある。もちろん客が入らなかった場合、監督が批判されることはあるが、それよりもなぜその監督を起用したかということで、「製作委員会」にかかわっている複数の人間が批判され、企業が損失を被る=責任を取ることになる。

 

とはいっても、もちろんそれでその企業が傾いたりすることはない。そのための、つまりリスクを分散させるための「製作委員会方式」だからだ。

 

しかし、と思う。そんな、誰が責任を取るのかが曖昧な、言い換えれば製作主体が曖昧な作品が、果たして本当に面白いものになるんだろうか。

 

合議制というのは、要するに最大公約数ということだ。一致点とは妥協点だ。関わる人の数が多ければ、それだけ配慮せざるを得ないところも多くなる。その結果、批判されにくい、当たり障りのない内容になりやすい。しかし、そんな作品が本当に面白いのか?

 

今日、俺は渋谷にあるシネマヴェーラという映画館で、1969年に東映で作られた作品と、1970年に日活で作られた作品を観てきた。片方は変態やゲイが登場し、もう片方は「せむし男」が登場する。いずれも今なら「製作委員会」による事前打ち合わせの段階でオミットされるだろう。しかし、そんな「配慮された」作品が面白いとは、俺にはとても思えない。

 

映画というのは、今でこそ健全な娯楽と思われているが、かつては映画館というのは「不良の行くところ」だった。それは年輩者の証言だけでなく、昭和40年代に小学生だった自分にも記憶がある。アニメか何かと間違えて東映の封切館に入ったとき、おそらく『山口組三代目』あたりのヤクザ映画を上映していたんだろうと思うが、「健全な大人たち」とは言えないような客席の雰囲気に、あわてて小屋を飛び出したことを覚えている。

 

それは極端な例かもしれないが、大衆というのは本来、怖いものやいやらしさ、下品さを好み、誰かをバカにして笑うのが好きなのだと俺は思う。テレビのワイドショーで芸能人の恋愛沙汰や下ネタ関係が受けるのと同じだ。かつての映画は、それをフィクションとして大衆にわかりやすく提示していた。そこに全方位的な「配慮」などを入れてしまったら、何も表現できなくなってしまうだろう。

 

かつての映画会社は、会社の責任で、つまり製作と配給の両面で、そんな表現を堂々とやっていた。東映などは1960年代後半に、当時、製作本部長だった岡田茂自らが「エロ路線で行け」と号令を発した。それが当たったので、岡田茂はのちに社長、会長へと上り詰めたのだ。もし、失敗していたら、岡田茂は当然、責任を取っていただろう。

 

自分がリアルタイムで観た角川映画も、ほとんどは角川春樹という一個人がプロデュースしたものだった。個人的に一番好きな角川映画である『時をかける少女』も、原田知世にマジ惚れした角川春樹が大林宣彦監督とともに作り上げた作品だ。そもそも、周囲の反対を押し切って原田知世をオーディションで選んだのも角川春樹本人である。

 

映画の話に終始してしまったが、もちろんこれは映画だけの話ではない。政治も社会も文化も、今の日本がつまらないのは、こうしたリスク=責任を負おうとしない、あるいは責任を負わせない人間が、あちらこちらにはびこっているからだと思う。

 

現在の天皇は、ひとりの人間として発言し、退位を希望した。そして、退位は受け入れられた。

 

かつて菅直人は、一総理大臣として浜岡原発の停止を要請し、その結果、原発は止まった。

 

トップが、誰のせいにもせず、自らの責任を明らかにして行動すれば、事態は動くのである。

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