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2014年11月20日 (木)

さようなら健さん

自分の音楽仲間以外の数少ない友人のひとり(40代・神奈川県在住・既婚女性)は、高倉健死去のニュースを知り、「存在しながらにして幻みたいな人だったけど、本当にいなくなってしまったのね」とツイートしてきた。

 

確かに健さんは、生活感がないというより、生の人間くささが感じられない存在だった。それはテレビなどマスコミに出たがらないということもあっただろうが、今回の死に際し、改めてうんざりするほど語られている「聖人君子ぶり」も、大きな要因だと思う。

 

日本では、犯罪者でない限り死んだ人間をあしざまに言うことは失礼、という「道徳」がある。ましてや生前すでに「聖人君子」だった高倉健は、これで完全に「神」となったわけで、健さんの悪口を言う人は、もはや皆無だろう。

 

自分も、健さんの悪口を言うつもりはまったくない。が、人によっては、これから書くことは、それに似たものだと受け取る人もいるかもしれないので、あらかじめお断りをしておく。

 

自分は、熱狂的な健さんファンではないかもしれないが、自分の世代としては彼の映画をかなり観ている方だと思うし、テレビの特集番組があれば必ずチェックし、著書もすべて読んでいる。また、自分ではなく親が買ったものだが、『網走番外地』の主題歌シングルは、いまだに大事に持っているので、客観的に見てもかなりのファンではないかと思う。

 

しかし、今回の死にあたり、高倉健を「名優」と持ち上げるのには、いささか違和感がある。

 

自分は、名優というのは技術的にうまい俳優のことを指すのが一般的だと思うのだが、高倉健は決してうまい俳優ではないと思う。

 

健さんが東映に入社してすぐ、養成所でレッスンを受けていたときに「落ちこぼれ」だったのは、自らもよく語っている有名な話だ。それから、『網走番外地』や『昭和残侠伝』シリーズでブレイクするまでは、実に9年間もかかっている。年齢でいうと、30代になって、ようやく花開いたことになる。

 

もちろん遅咲きの俳優だから名優ではないとは言えないが、たとえば大スターとして並び称される三船敏郎と比べると、どうだろうか。『野良犬』の若い刑事、『酔いどれ天使』のヤクザ、『七人の侍』の菊千代、『天国と地獄』の息子を誘拐された会社社長、『赤ひげ』の老医師と並べてみて、これらの作品で三船が演じた役が、他の作品の役と入れ替えられるだろうか?

 

「いやいや、それは黒澤明というたぐいまれなる監督だからそうだったんだよ」という意見もあるかもしれないので、他の例として岡本喜八作品を挙げてみる。『結婚のすべて』という作品ではオカマっぽい芸術家、『独立愚連隊』では頭のおかしくなった大隊長、『暗黒街の顔役』では気の弱い自動車修理工、『暗黒街の対決』では汚職刑事と、役柄だけでもバラエティに富んでいるが、これらの作品を観ると、黒澤作品のイメージを持つ人は、「これが三船?」と呆然とするかもしれない。

 

しかし、高倉健という俳優は、そう器用になんでもこなせる役者ではない。

確かに1970年代なかばに東映との契約を解除し、フリーになってからは、ヤクザだけではなく刑事、検事、軍人、南極観測隊員、レーサー、居酒屋主人、駅長、刑務官と、さまざまな職業の役をやっている。しかし、悪いがどれもさして代わり映えしない。というより、これらの役はみな同じ人物に見える。

 

「同じ俳優がやっているんだから当たり前だろう」という人は、前述した三船敏郎の演じた役を思い起こしてほしい。「彼ら」は同じ人に見えるだろうか。

いや、三船に限らない。ほぼ同時代に活躍した役者でも、舞台でも活躍する仲代達矢は言うまでもないが、芸の巧みさより「味」で勝負していた丹波哲郎でも、『日本沈没』の彼と『砂の器』の彼とではまったく違うし、小林旭にしても、『渡り鳥』シリーズと『黒い賭博師』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズや『多羅尾伴内』では、それぞれ印象が違う。これらの俳優と比較すると、高倉健は明らかに「幅」の狭い役者である。

 

あえて、高倉健に近い俳優を考えると、石原裕次郎ではないかと思う。

 

冒頭に紹介した友人は、「石原裕次郎はどこがいいのか、さっぱりわからない」と言っているが、彼が活躍していた日活映画をリアルタイムで観た世代ではない自分も、一人の俳優として石原裕次郎を見た場合、そのよさが今一つわからない。

 

それでも裕次郎の場合は、それまでになかった長身で足が長く、顔の小さい外見と、既成の職業俳優にはいなかった、素人そのものの「演技」が、当時はひどく新鮮に映ったんだろうな、ということは想像できる。ただそれは石原裕次郎という存在・キャラクターが時代とマッチした、ということなので、俳優として評価されたわけではないと思う。実際、石原裕次郎は「大スター」とは呼ばれても、「名優」とは言われていないはずだ。

 

しかし、高倉健は、その石原裕次郎ともまた違う。

 

高倉健は、どんな職業・立場の人間を演じても、つねにアウトローで孤独なにおいがつきまとう。『動乱』や『居酒屋兆治』で妻がいる主人公を演じても、その印象は同じである。一方の石原裕次郎も、アウトロー的な役柄を演じたことは何度もあるが、彼の場合、どんな境遇でも孤独な感じはしない。恋人か友人か兄弟かはわからないが、「仲間」がいる感じがする。その意味では、むしろ裕次郎の日活の後輩である渡哲也の方が、孤独を感じさせる(ただし、裕次郎よりも渡哲也の方が遥かに「名優」だと思うが)。

 

言い方を変えれば、高倉健の演じる人物は、すべてどこかが後ろ暗い。つねに、過去に「何か」があった役なのだ。逆に言えば、そうした人間しか、高倉健は演じようとしなかった、とも言える。

 

そして、その「過去」とは、すなわち俳優・高倉健の過去、健さんがそれまでに演じてきた人間たちの過去なのである。

 

いちばんわかりやすい例が、『幸せの黄色いハンカチ』である。あの作品の主人公は、喧嘩で誤って相手を殺してしまい、刑務所へ入っていたという設定だが、当時、あの映画を観た人は、その設定から、まず10人が10人とも、東映やくざ映画で悪いやくざを斬って=殺していた健さんを脳裏に浮かべただろう。そして、その雰囲気が高倉健に色濃く残っていたからこそ、あの主人公はリアリティを持ったのである。

 

その後の『君よ憤怒の河を渡れ』や『野性の証明』では殺人者と疑われる主人公(前者は検事、後者は元自衛隊レンジャー部隊隊員)を演じたが、やくざ映画で「犯罪者」となった役を演じていたがゆえに、観客は健さんの置かれた状況や行動に納得した。『八甲田山』では軍人、『駅 Station』では刑事だが、これらの作品での自己を律する厳しさは、『昭和残侠伝』のストイックさあってのものだ。しかし、よくよく考えてみれば、あんな健さんみたいな検事や自衛隊員や刑事が実際にいるはずがない。(その違和感が一番あったのは、『鉄道員(ぽっぽや)』だろう。どう考えても、あんな田舎の駅長はいないと思う)

 

つまり、高倉健の演じる役は、すべて過去に高倉健自身が演じてきた役を背負っているのだ。どんな職業や立場の人間を演じても、さして代わり映えがしないように見えるのは、そのためである。

 

自分は俳優ではないので確信はないが、俳優をやるからには、いろんな役を演じ、いろんな人間になってみたいはずだ。高倉健だって、長い俳優人生の中では、おそらくそんな気持ちを抱いたことがあったと思う。しかし、結果として彼にはできなかったのだ。「高倉健ではない高倉健」を演じることが。

 

おそらく自分だけではないと思うが、健さんの映画を観ると、いつも高倉健という俳優のドキュメンタリーを見ているような気がする。特にフリーとなって以降は。自分はリアルタイムではフリー以降の作品しか観られなかったので、余計にそう思うのかもしれないが。

 

先に自分は、高倉健は名優ではない、と書いた。

しかし、こと俳優・高倉健を演じることにかけては、健さんは誰よりも優れた名優だったと思う。

 

その意味で、高倉健は、唯一無二の俳優である。

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